- グレース 椿宮-Grace Tsubaki-
見失う・見失った人へ
たとえこの世界が、考えないようにする、経験しないようにする仮想世界に向かおうとも
2つのプロセスを忘れないでほしい。
① 見つけるプロセス
「探して見つける」ということもありますが、ここでいう「見つける」は「自然の出会い」のようなものです。気がついたら目の前にあったとか、何気なく意図せず見つかったという流れのものです。経験で出会うもののことを言います。
「気づき」とも言いますが、人生そのものも「見つける」ものです。「見つける」を重ねてできていくものです。
何事も、血眼になって探す、躍起になって掴む、即時に答えを求めるなど、それも間違いではないとは思います。そこから何を「見つける」かができればよいと思います。
② 考えるプロセス
すぐに答えを知りたがる人が多いように思います。今や便利な時代で、膨大な計り知れない情報で溢れています。ネット検索や本を探せば、求めている答えがすぐに出てくる時代ですし、たくさんの情報や専門的な情報を持っている人とすぐ知り合えるような時代です。
しかし、ここに大きな落とし穴があります。それは「考える」行為を停止させているということです。
本来、経験することで得る情報が、経験をせずに結果だけ得られます。例えば、レストランを探しているとき、今ではネットでキーワード検索すれば該当するレストランがズラズラッと出てきます。そこには、それぞれのレストランに対するコメントが掲載されています。
そのコメントを書いた人は①本当にそのお店に行ったのでしょうか?②自分の知っている人でしょうか?③好みが同じでしょうか?etc
そのコメントを読んでまだ行ってもいないのに行った気になる。知っている気になる。
これは、勉強のために参考書を買っただけで、あるいは会員になっただけで、または資格を取っただけでなどの「仮想経験」であって、その気になっていることは多いものです。
これらの経験は誰にでもあることと思いますが、この経験から何かを得ることができれば良いです。しかし、自分が経験していないのに人の話だけで経験したかのように結果だけを得る行為の実は「無思考」でしかありません。
そうなると、そこには自分で見つけたものごとや自分の考えがないわけですから、とても浅く軽く表面的なものでしかなくなり、核心に近づかないどころか考えがグルグルめぐって、ああでもないこうでもない、これをするとこうなってしまうけれど、あれはできない…など、経験が伴わない情報過多の状態で、得られるものがないので手放せるものもなく、あれもこれも手放せなかったり、または、手放す勇気はあるけど次にどうしたら良いのかわからないといったその場で足踏みをして目をまわしてしまい、現状すら停止状態にもなり、ネガティブや不安や否定などの感情や心理に覆われてしまいます。
そして
ひとつ加えておきたいことがあります。
たとえ答えがわかったとしても、人生の目的や生きる目標が見つかったとしても、一足飛びにはいかないということです。
誰もが同じようにトキの流れにのって目的地に向かって歩んでいます。その目的地が見つからないという人もいるでしょう。自覚してるか、無自覚かの違いだけであって、それでも誰もが目的地に向かって歩いているわけです。まだ知らぬ地であったとしても。
しかし、一足飛びにその目的地に到達したとしたらどうでしょうか。
歩く道すがら、石に躓いたり壁にぶつかったり、迷子になったり、誰かに助けてもらったり、誰かを放っておけなかったり、楽しみを一緒に分かち合える人と出会ったり、泣いたり笑ったり感動したりetcそんなことのなかから、感じて考えて見つけて歩みを進めていくことこそが人生なのではないでしょうか。
後悔することだらけの人生かもしれませんが、きれいごとで生きられるものでもありません。生きて悟りをひらくことすら、もしかしから傲慢かもしれませんし、死んでもわからないことだらけだと思います。
ただひたすら、考えながら見つけながら捨てながら拾いながら生きていくことができれば、とても良い人生になるのではないかと思っています。
